関連付けについての自己定義
いつになったら涼しくなるんだろう,のセリフはすっかり影をひそめ
日が短くなった, 今朝は寒かった, 街路樹紅葉してきたね,
と会話も秋の装い.
酷暑,極暑(辞書(新明解国語辞典)には載っていなかったがPCで表示された)の日々から
解放されて日常に戻った私たち.
ブログのプロフィールの好きな映画欄を更新しておもいだした.
『モーリタリアン 黒塗りの記録』 私には衝撃的な映画だった.
その中で主人公のスワヒのセリフは心に残っている.
アラビア語で自由という言葉は許しという意味もあるんだ,と.だから自分は
誰も憎んではいない,自由だから.
自由と許しが同義語なんて,なんて素敵な言葉なんだろう.
先日読んだ本,Dr.中村の言葉のなかに
この戦争は何かおかしい, 戦争の根っこはタリバンでもアルカイダでもなく
自分たちの中にあるといっていた.
アルカイダの面々は普通の生活しているアゼルバイジャンの方ではなく
裕福でかつハイレベルな教育,それも国外(ヨーロッパやアメリカ等)で教育を受けた人たちだといってた.
考えてみれば日本だって誰しも自由に飛行機は操縦できやしないし,外国語もPCも戦争を企てるレベルに使いこなせる人なんてそうそういない,と私の感覚ではおもう.
誰かがどこかで仕組んでいる. というと陰謀論好きに思われるかもしれないけれど, 少しは疑いの目を持って物事を見る習慣を持つのは必要と感じる.
物事の核心部分や,個々の真実をつなぎ合わせると, 何か全体像が見えてくるのではないかと確信しているが, 果たして私はその物事の核心部分に近いと手ごたえでも感じていたのか?わからない. 整理整頓が苦手なわたしはいつもいつも頭の中が混乱している. 実生活もしかり.いつも思考途中で挫折やあきらめ,あるいは考えていたことそのものを忘れ私のブラックホールが膨らんでゆく.
この状態を何とか脱却すべく, コーチングというのにすがろうと思ったが,何かが引っかかった. 何かとは,一番はとてつもなく高額だったこと(相場を知らないが), それと高慢ながらそんなに自分を変えないといけないのかという疑問があったこと. 成功・幸せがキーワードのように感じられそれほどまでに自分はそれらを求めているのか,確信がなかったこと. そういう要素を含んだもやもやっとした何かが申し込みに至らなかった理由. で,相も変わらずゴチャゴチャとした頭の中にいる.
このブログを読んだ方は実感されていると思うけれど(読んだ方がいればの話だが), テーマが絞り切れていない,話が多岐に. これは整理整頓ができていない証. だけどどうしても関連付けでこうなってしまう. つまり物事はいくつも繋がりがあって単独では説明がつかない,そのことの証でもあるのではないか,と思うにいたった. 体のいい言い訳だけど.
日はのぼり光を注ぐ.
私たちは当たり前のように明るい中を歩く.
楽しい人にも悲しい人にも, 優しい人にも意地悪な人にも,
選ぶことをしない.みな平等に光を,光の暖かさを受ける.
日は沈み闇がやってくる.
月が星が出てきて闇を照らす.
ありがとう.
当たり前の日常がとても有難いことだと気づく.
ありがとう,自然に, 地球に.
どうしたら恩返しができるだろう.
静けさのなかで考える, 太陽と月と星と我らの地球と
素晴らしいシステムと生き物たち.
やはり戦争をしないこと, 外に出る(植物のための二酸化炭素放出)こと.
と私は考える.